2046年の神の国の相続者と滅びゆく者。

最近は大学の勉強も重なり何かと多忙だ。勉強に疲れたら聖書を読んでいる。まだ旧約、新約全部読んでいないので少しづつ読んでる。前置きはこれぐらいにして本題に入りたいと思う。

俺は科学技術の加速度的進歩と聖書の関係性について考えている。科学技術の加速度的進歩について考えてる人はtwitterのフォロー、フォロワーに少なからずいる。けど宗教と絡めて考える人が皆無なのでちょっとつまらない。

今日の記事のタイトルはこの先激しく変化する社会の中でおそらく滅んでいくかもしれない人とそうでない人を考えてみたいと思う。最近Twitterで見るのは「新しい物や技術、価値観を受け入れる人は柔軟でこの先適応して生きていける」というもの。この手の考えはフォロー、フォロワーは賛同してる人が多いように見える。しかし俺は否定する。

何故否定するかというと、道具、娯楽、こういったものは基本的に姿形が変わっていくものだ。目に見える道具や娯楽に熱狂する。逆にこの生き方は自滅の道を歩むことになると確信に近づいてる。悪いと言ってる訳じゃない。俺もゲームは楽しんでるし。ただ軸をそこに置いていると自滅しかねないという事。ではなぜ自滅するか?

 例えば加速度的に道具、娯楽がアップグレードされていく中で、すぐに移り変われるだろうか。一か月前に買ったゲームを諦められるだろうか?その時間はどんどん短くなりいずれ限界が来る。新しいものを受け入れる暇もなくなる。現れては消えていく道具やゲームに熱狂する人間はおそらく自滅するかもしれない。永遠に変わらないものを信仰している人間は逆にそういう世界では幸せに暮らせるんではないだろうか?その一例が神やその口から出る言葉だ。

 スマホはあと何年使われ続けるだろうか。後5年もしたら相当廃れると思う。じゃあ2000年以上前からある聖書の言葉はどうだろうか。5年後になくなると考えられない。10年後、100年後は?俺はなくなるとは思えない。「神の言葉は永遠」というのはあながち間違ってないのかも。今後シンギュラリティに近づくにつれ永遠の幸せを享受するにはなにかしらの「信仰を持つ事」がかなり重要なキーワードになってくる気がする。しかしその信仰は「永遠」の保証ができるかどうかによって全然違うと思う。

聖書の一部を抜粋して終わりにしたいと思う。

ガラテヤの信徒への手紙5章17節~22節

「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と礼とが対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなた方は、律法のもとにはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、、その他この類のものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ身は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」